田中光顕[たなか みつあき]

天保14(1843)年〜昭和14(1939)年

土佐勤王党に加盟し、長州(現山口県)へ脱藩。陸援隊に参加し隊長の中岡慎太郎を補佐。維新後は要職を歴任し、宮内大臣を長期間つとめました。志士の顕彰や子孫の救済にも尽力し、自身の蔵書や収集した志士たちの遺墨コレクションを青山文庫に寄附し、青山文庫を博物館として発展させました。

牧野富太郎[まきの とみたろう]

文久2(1862)年〜昭和32(1957)年

「日本植物学の父」と称される植物学者。佐川で酒造業を営む岸屋に生まれ、幼時から植物への関心が強く、佐川の自然の中で植物知識を深めていったといいます。若い頃は自由民権運動に傾倒したり、地元の青年たちとの勉強会を立ち上げるなど様々な活動を行いますが、次第に植物学研究に専念するようになります。
研究のために東京に出ると、東京大学で研究に邁進まいしんし、数多くの新種の発見や命名を行い、植物図鑑の発行や植物採集会の実施などを通して、植物学の普及にも尽力しました。 桜を好み、高知県へソメイヨシノを入れた人物でもあります。

西谷退三[にしたに たいぞう]

明治18(1885)年〜昭和32(1957)年

英文学者・博物学者。本名を竹村源兵衛といい、佐川の富豪の家に生まれましたが、博物学に興味を持ち、『The Natural History and Antiquities of Selborne(邦題は『セルボーンの博物誌』)』に出会い魅了され、生涯をこの本の翻訳と研究に捧げました。
『セルボーンの博物誌』のコレクションを含む、西谷の蔵書約1万冊は「西谷文庫」として青山文庫に所蔵されています。

土方 寧[ひじかた やすし]

安政6(1859)年〜昭和14(1939)年

法学者。東京大学法学部で学んだ後、英国に留学しバリストルの学位を取得。イギリス法や民法の権威として活躍し、貴族院議員もつとめました。
土方の生家跡地には、現在の青山文庫が建っており、江戸時代に造られた日本庭園「久如園」が残っています。

広井 勇[ひろい いさみ]

文久2(1862)年〜昭和3(1928)年

土木工学者。幕末に佐川深尾家の家臣の家に生まれ、社会が激変する中で努力を重ね札幌農学校や米国で学びました。小樽港の築港工事では日本初のコンクリート製防波堤を完成させ、港湾橋梁工学における日本の最高権威となり、当時の日本の技術力を世界に示しました。
また、母校の札幌農学校や東京大学で後進の教育に尽力し、「清きエンジニア」と称された広井の在り方は、日本のインフラを整備した後の技術者たちに大きな影響を与えました。

古沢 滋[ふるさわ しげる]

弘化4(1847)年〜明治44(1911)年

政治家。幕末に佐川深尾家の家臣の家に生まれ、土佐勤王党員として活動しますが、勤王党への弾圧が始まると牢に入れられ、失意のうちに維新を迎えます。
維新後は、イギリスに留学し政治学を学び、帰国後の明治7(1874)年には、板垣退助の求めにより民撰議員設立の建白書を起草し、自由民権運動に傾倒します。しかし後には自由民権運動とは逆の立ち位置である官界に入り、晩年は貴族院議員となりました。

水野 龍[みずの りょう]

安政6(1859)年〜昭和26(1951)年

皇国植民会を興し笠戸丸でブラジルへ781名を移民させ、「ブラジル移民の父」と慕われました。また、日本初のコーヒー専門店カフェ・パウリスタの創業者でもあります。